Message〜幸せの伝言〜


第1話:【彼のネックレス】


その日、アミは神様さえも疑っていた。
それでも医者の言葉だけは素直に受け止めるしかない。

「妊娠していますね…2ヶ月です」

検査薬の結果にドンと太鼓判が押された瞬間である。

長崎から上京して2年と少し、それまで勤めていた銀行は先週末に辞めたばかり。
同時に10歳年上の彼とも別れた。
その彼との間にできた子どもが今、アミの中にいるのである。
幸か不幸か妻子ある彼はこのことを知らない。
1年続いた不倫の結末はあっけない幕切れだった。

20歳でシングルマザー。
中絶手術の同意書を手にしているアミにとってのそれは単なるイメージでしかない。
東京の空が一段と低く思えた。

高架下を流れる細い川を眺めながら歩いていると、電車の音に混じって音楽が聞こえてきた。
金曜の夕方、6時半…ガード下で歌う彼はちょっとした有名人。
普段は湿っぽいこの地下道も週に一度だけは彼のステージへと変わる。

アミはいつも彼の姿を横目で見送るだけだった。

制服姿の女子高生、学生風のカップルが彼の歌声に耳を傾けている。
甲高い声とやさしいビブラートは壁に跳ね返って再びこちらへと届けられる。

彼の素直な歌詞はアミの心にスッと入り込んできた。
せつないバラードを歌い上げる彼の撫、その笑顔は幸せに満ちていた。

それまで音楽は追いかけるものだとばかり思っていた。
いつの日か、誰かが立ち止まってくれるのをずっと待っていてくれる。
ある意味、都合のよい解釈だが今日はそれも真実に思えた。

あっという間の1時間半が過ぎ、彼は拍手とともに週末の小さなライブを終えた。
オーディエンスは友達のように「ありがとう」「よかったよ」「また来週ね」と声をかけては彼の前から立ち去っていく。

「ありがとう」

そう言ってきたのは彼の方からだった。

「いつもここを通っているよね?」
『え?あ、うん』

「確か…先週末も泣いてた。違う?」
『やだ、見られてたんだ…』

不倫へのピリオド、退職したその日…上を見上げては涙がこぼれるのを抑えていた。
それからはまさに空白の1週間。
泣き顔を見られたとしても、自分のことを覚えていてくれる…アミはそれだけで嬉しかった。

「今日の涙のワケを聞かせてくれないかな?」
『そうね、あなたの歌に泣かされました…なんてね』

アミはハンカチを探しながら無理な笑顔を見せた。

「俺、ヒトミ。20歳、よろしく」

彼はそう言いながら大きな右手で握手を求めてきた。

『わたしはアミ、同い年だね』

ヒトミと名乗った彼は凍えるアミの手を温かく迎え入れた。
2人の吐く息は白く、季節は少しずつだが冬へと向かっている。
アミは手から手へと温度が移動する瞬間にもささやかな幸せ感じていた。

「これからどうする?よかったらメシでも食いにいかない?」
『うん、いいけど…』

「じゃ、決まりね。おごるよ」
『いいよ、悪いもん』

「ま、今日はファン感謝デーってことで…」

彼はギターケースを肩にかつぐと駅に向かって歩き出した。
週末の夜、駅前の大通りには人の列が見える。
ネオンと街灯の光が目に刺さって少し痛かった。
2人は駅から少し離れた雑居ビルの4階にある小さなパスタ屋に入る。
迷わず窓際の席を選ぶと、イスを引くよりも早く腰を下ろした。

『ここ景色いいんだね。今まで気付かなかった…』

アミが下を走る車のテールランプを見てつぶやいた。
同じ色をしたタクシーが次々とロータリーに吸い込まれていく光景は実に気持がいい。

「そうだね。昼間は気付かないかも」
『よくここに来るの?』

アミが渡されたメニューを開きながらそう聞いた。

「はじめてだよ」
『うそ?』

オーダーを済ますと、彼は組んだ両手の上にアゴをのせて、窓の外をじっと眺めていた。
腕に巻き付けてあるアクセサリーがネックレスだと分かったのもこのときである。
ネックレスの先には雪の結晶のようなモチーフがついている。
アミはそのキラキラと輝く六角形を見ているだけで優しい気持ちになれた。


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