水族館ごっこ


第2話:水族館ごっこ


 ──二年前のあの頃は、週に一度か二度会うのがやっとだった。毎週末には、どちらかが一方の家に泊まった。そして平日には、わたしが仕事でこの駅を通る日にしか会えなかった。わたしが途中下車して、このお店で待ち合わせて、いっしょにお昼を食べる。それだけ。
 ただそれだけの時間が、わたしには最高のお昼休みだった。
「だって、いつでも思い出してたもの。毎日」と、わたし。「この二年間、悟志のこと考えない日はなかったわ」
 悟志はちょっと顔を伏せて、とまどったような目だけをあげてわたしを見た。
「あやまったほうが、いいのかな?」
「そうよ」わたしはにっこりした。「あやまんなさい」
 彼がなにか答えようとしたとき、マスターがティーカップの載ったトレイを持ってきた。それで……なんとなく気まずくなって、ふたりとも黙ってしまった。
 カップはほんのりと湯気をたてていた。レモンを入れて、スプーンでかきまわす。紅茶の色がほんのちょっと変化する様子をしばらく眺めてから、レモンをスプーンですくいあげた。すこし色の薄くなったレモンを、スプーンといっしょにお皿のはしっこに置く。紅茶は苦くて、酸っぱくて、いい匂いがした。
 ――はじめてこのお店に来たときのこと、ふと思いだした。知り合って間もなく、彼もわたしも社会人になりたての、あの日のこと。鳥居をくぐってすぐのお店、来ればすぐにわかるよ、でも「コーヒーだけは飲んじゃだめだ」って、悟志に何度も念を押されたっけ。
 彼よりもちょっと早く着いたわたしは、思いきってコーヒーを頼んでみた。そして……遅れてきた彼が注文した紅茶を、半分わけてもらった。
 さっきのわたしの言葉を気にしてるみたい、顔を伏せたままの悟志。サンドイッチを食べるでもなく、紅茶を飲むでもなく。ただ、カップの中身に目線を落としてる。
 視線のやり場に困って、わたしは窓のほうに顔をむけた。
 この席からだと、外の歩道を行き過ぎる人と、歩道に落ちる影がはっきり見える。いまはお昼休み。ほかの時間帯より、人通りが多い。
「ね、悟志」
 窓の外を指さして、彼の注意をひく。悟志は顔をあげて、窓の下を歩いているおじさんに目線をうつした。スーツ姿のそのおじさんをじっと見つめてから、期待のこもった目をわたしにむけた。
「オニダルマオコゼ」
 わたしの口にした魚の名前に、悟志は満足しなかったみたい。あらためて窓の外に顔を向けると、おじさんが通りすぎるのをだまって見つめてから、ゆっくりと口を開いた。
「トラウツボ」
「そんなに怖くないわよ」わたしは反論した。「愛嬌のある顔してたじゃない。目ちっちゃくて、丸くって」
「ウツボだって、案外かわいい目してるよ」
「だめ。口が怖いもん」
「オコゼのほうが怖いって。あのトゲトゲ」
「あれは……アクセサリーだもん」
 議論は熱を帯びてきたけど、もちろん本気じゃない。悟志の目は笑ってる。わたしの目も、きっと同じ。
「じゃあ……」
 悟志は窓に顔をむけて、通りを歩いている着飾った若い女性を指した。
「あの人は?」
「ヒメアイゴ」わたしは即答した。
「ヒフキアイゴ」と彼。
 わたしは首をかしげた。「そんな魚いた?」
「いるよ」
「いないわよ」
「いるって。調べてみなよ」
「ヒメアイゴとどう違うの?」
「火を吹くんだ」
 わたしは笑いだした。「うそぉ」
「本当だって」悟志も笑いをこらえている。肩が震えていた。
 ――心底くだらない遊びだった。水族館ごっこ。喫茶店の窓を水槽に見たてて、外を通りかかるるひとを魚にたとえる。ふたりが納得すれば勝ち、意見があわなければ負け。ふたり同時に勝ったり負けたりするわけで、決して勝負はつかない。
 ここで食事をするときは必ず、わたしたちはこの遊びをしていた。なぜか、ほかの場所でこの遊びをしたことはない。道を歩いていて、すれちがう人を魚にたとえるようなことは一度もなかった。このお店でだけ。理由はわからないけど。
「本当に火を吹くのね、ヒフキアイゴ」わたしは笑いがとまらない。「ちゃんと調べておくわよ。もし火を吹かなかったら、次に会うとき、なにかおごってもらうから」
「ああ、いいよ」悟志はにっこりして、こくん、とうなずいた。
”次に会うとき”なんてない。悟志もそれはわかっていたはず。でも、ふたりとも、そんなことは気がつかないふりをしていた。
「じゃ、最後ね」わたしは窓の外を指さして、「あの人」
 わたしが選んだのは、やっぱりスーツ姿のおじさん。さっきの人とはずいぶん雰囲気がちがう。ちいさな体をひょこひょこさせて、すべるような、浮いているような、ゆらゆらとした足取りで歩いてくる。まっすぐ前を向いてはいるけど、どこかの空中を見ているみたいな目つき。唇にはかすかに笑みが漂っていて、どこか、なんだか、うれしそう。
「ミズクラゲ」すこしも考えずに、悟志はこたえた。
「うん」わたしはうなずく。「ミズクラゲ」



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