水族館ごっこ


第3話:幸せに


 通りをふわふわと遠ざかっていくおじさんを、わたしたちは顔をよせて見送った。とってもすてきな、とっても幸せそうなおじさんだった。
「幸せそうね」とわたし。
「うん」と彼。
 悟志はサンドイッチの最後のひと口をほおばってから、わたしに視線をむけた。
「レイは……いま幸せ?」
「ううん」わたしはかぶりをふった。「悟志のことずっと考えてたら、幸せになんてなれないよ」
「そうか……そうだよな」
 悟志は唇を噛んで、視線をさまよわせた。冷めた紅茶をひと口すすってから、
「けど……やっぱ、レイには幸せになってほしいよ」
 わたしはにっこりした。「そう?」
「当たり前だろ」
 悟志は子供みたいに、力いっぱいうなずいた。
「幸せになってくれなきゃ、困るよ」
「……そうね」わたしはつぶやいた。「そうよね」
 ――わたしにとっての、幸せ。
 お互いに仕事が忙しくって、会えるのは週末と、たまのお昼休みだけ。でも、その時間が、わたしにはとっても大切で、とっても愛おしくって。
 わたしが幸せだったのは、悟志といっしょの時。この店でこうして向かいあっている時間が、わたしにとっての幸せそのものだった。
 でも──それは今日までのこと。今日、このお店を出たら、もう二度とこの幸せは味わえない。味わってはいけない。
「わたし……幸せになりたくない」
 悟志はびっくりしたみたいだった。わたしを見つめたまま、声もだせない。
 わたしはにっこりしてみせた。
「幸せになんて、なりたくない。ならなくていい。このままでいるわ、ずっと、いつまでも」
 あくまで冗談めかして、しっかりと微笑みもそえて。――でも、それはわたしの本心だった。冗談なんかじゃなく、本音だった。
 そのことは悟志も気づいてた。哀しげな目でわたしを見て、
「レイちゃん……怒るよ」
「ごめん」
 ちくり、と胸が痛んだ。笑顔でごまかして、視線をそらした。
 壁の時計が目に入った。いつのまにか、ずいぶん時間がたってしまっていた。お昼休みも、もうすぐ終わり。
 悟志はわたしの視線を追って、壁の時計を見あげた。それから腕時計に目をおとして、
「そろそろ、戻らなきゃ」
「うん」わたしは立ちあがった。
 わたしの紅茶は半分も減っていなかった。それぞれの伝票を持って、無言で支払いをすませた。出口を抜けるあいだ、悟志は扉を押さえてくれてた。
 階段を降りる途中で、わたしは思いきってふりかえった。「悟志」
「ん?」
 すこしの沈黙のあいだ、悟志は辛抱づよく待っていてくれた。わたしの言葉を。わたしは思いっきり息を吸いこんで、
「わたし、幸せになる」
「……ん」悟志は静かにうなずいた。やわらかい微笑をたたえた、おだやかな表情で。
「だから……安心して」
「ん」悟志は静かにうなずいた。
 一歩ずつ、ゆっくり階段を降りたけど、すぐに歩道についてしまった。手を握ったりしてはいけない気がしたから、ちいさく手を振るだけにした。彼も手を振りかえして、
「じゃ」「うん」
 背を向けた。歩きはじめる。わたしは駅のほうへ。彼は反対の、どこかべつの方向へ。
 うしろは振りむかなかった。駅のトイレでしばらく泣いてから、お化粧をなおしてホームに降りた。ちょうどやってきた電車に、あわてて飛び乗った。
 わたしの再会――悲しくて滑稽な、そこにはいない人との再会が、こうして終わった。


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