逃亡
第10話:身代わり
予想しなかった方法だった。一瞬の沈黙の後、マリさんが煙草を投げ捨てた。
「身代わりって‥‥まあ、どうやって作るのかはちょっと置いておくとして、うまく作れたとしても、いずれは違うってばれるでしょう。その時はどうする気なの? その方法だと逃げる時間は稼げても、戻ることはできないわよ」
今までとは違う低く脅すような口調。
「その身代わりの口座に少しお金を入れとく」
「それらしき痕跡を残すってわけ?」
「うん。そうすれば、いくら口で違うって言っても信用しないでしょ。それに、前もってマネージャーに夏休みはずっと旅行に行くことを伝えておくの。どう?」
「‥‥‥突っ込むところはいっぱいあるけど、まあ、一度は戻ってこれそうね。でも、それだと戻ってからが大変よ。特に水原が。お金がなくなったのと、あんたが旅行に出てるのと無関係と思うほど、間抜けかしら? 桐からも、ちょっと言ってあげてよ。そんなの無理だって」
「‥‥‥マリさんの言うとおりだと思う」
「ちょっと!」
「思うけど、少しでも可能性があるならやってみたい。それに、私も身代わり以外ないと思う」
一気にそう言うと、晴香は悪戯の共犯者を見つけた子供のような顔をして笑った。
「………当てはあるわけ?」
数秒間、空を睨んだ後で諦めたようにマリさんが問う。
「うん! まだ決めかねてるけど。三人ほどね」
「ふうん。詳しい話は今はしなくていいけど、どういう人たち?」
晴香はその当てとして考えている人たちについて、説明しはじめた。
一人は登録している女の子で、彼氏が作った借金を返してるそうだ。二人目は会員の客で、仕事が不調らしくお金に困っているという噂。最後がスタッフの若い男。見た目も中身も軽く、女の子たちにお金をせびっているのを何度も目撃されているらしい。
「どれもあんまりね。そんないかにも怪しい奴は、すぐに念入りに調べられて違うってばれるわよ」
素っ気ないマリさんの反応に、晴香は膨れっ面をしていた。確かにそういう危険人物はマークしているだろうから、ちょっと調べれば本当の犯人じゃないということが露呈するだろう。
「でもさあ、怪しいって思うとこがないと意味ないじゃん! ねえ、友恵」
「え? あ、うん、でも、あんまりいかにも怪しいって人だと、すでにマークされてるかもしれないし。そしたら、すぐ犯人じゃないってことが分かると思うんだけど」
「あー、まあ、そう言われりゃそうだけど。じゃあ、どんなのがいいって言うの?」
「ん……晴香の言う通り、怪しいと思わせるところがないと意味ないとも思うから、そんな露骨じゃないけどよく考えれば怪しいと思える‥‥っていうのが、一番いいと思う」
「ま、そういうこと」
「うるさい! 露骨じゃないけど……よく考えれば怪しい?」
「いそう?」
頬づえをついて考えこんでいる晴香をマリさんと一緒に見守った。しばらく重い沈黙が流れた後で、「すぐには思いつかない!」という晴香の声で糸が切れた。
人物像が抽象的すぎて範囲が狭まらないのだ。露骨に怪しいというのであれば、まずは借金などの金銭トラブルを抱えている人だろう。
「当てはまらない人を考えていかない?」
「は?」
「私もどういう人がいいのかはっきりとは分からないから。これはダメっていうのを挙げていけば、イメージも掴めるだろうし」
「桐は発想の転換がいいね。言い出しっぺの水原もがんばんなさい」
「うるさいな! じゃあ、ダメなのを挙げてく? とりあえず、露骨に怪しいのはだめなんだよね。さっきの三人みたいのか」
「うん、金銭のトラブルを抱えてるっていうのを知られてるような人とか」
「そだね。金銭トラブルっと‥‥」
晴香はメモ用紙を取り出して、書き込んでいった。
「後は……」
「家庭がうまくいってないっていうのも外した方がいいわよ」
「え? 何でよ」
「逃げ出す動機になるでしょうが。逃げるためには、お金が必要なんだし」
マリさんの言葉に、二人して深く頷いていた。借金などの表面的金銭トラブルがなくても、お金を必要としていることは多いのだ。
「なるほどね。じゃあー家庭の、トラブル‥‥と。後は?」
「マリさんのと同じことだけど、会社とか仕事がうまくいってないっていうのも、外した方がいい、よね?」
「あーそうか。そうだね。独立資金とかってねー、んーじゃあ、仕事のトラブル、と……って、これを外してくと何の問題もない人しか残らないじゃん!」
「そう?」
「そうだよ。だって、お金にも困ってなくって、家庭も安泰で、仕事もうまくいってるってなるよ? 幸せな人じゃん」
そう言われるとその通りだ。でも、何の問題もなく見えるというのと、幸せというのは同義語ではない。
「あ、それも外しとかないとだめね」
「それって?」
「お金にも困ってなくって、家庭も仕事もうまくいっている人のこと」
マリさんの言葉に、思わず二人して声を上げてしまった。
「えっ?」
「はっ?」
「何、二人して、そんな顔しちゃって。当然でしょう? そーんな幸せな人が、危険を犯してまでお金を盗むわけないんだから」
「そ、そうだけど‥‥でも、じゃあ、誰もいないってことになるよ」
「んー、水原、書いたのを読み上げてみ?」
「‥‥金銭や仕事、家庭のトラブルを抱えている人、お金持ちで、家庭も安泰で、仕事もうまくいっている人を外す」
「ん‥まあ、そんなもんかなあ」
「でも、マリさん、これに当てはまらない人なんている?」
「それは、二人で考えてみてよ。ところで、何かお腹すかない? ちょっと買い物に行ってくるから、その間にでも考えててね」
マリさんが出て行って、数十分は考えこんで意見を言い合ったが、進展しなかった。ただ、不幸でもなく幸せでもない、かといって、本当に普通な人でもムリだろうというかすかな残像が見えるだけ。結局、誰でもいいような、誰にもムリなような気がする。
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