逃亡


第2話:月に一度のデート


私たちは、私は無力だ。
 何も手に入らない。指先に付着したわずかな砂粒を握り締めることすらできない。体の下の冷たい大地と黒い空。それだけ。
「さよなら」
 頭上から聞こえた少しハスキーな声の数秒後に、「カチャ」という金属音が響いた。

 彼女たちに出会ったのは高2のとき。遅刻した予備校の試験会場で晴香と出会った。
「遅刻なんて、ずいぶん余裕じゃん」
「あ…す、すいません」
 これが晴香と最初に交わした言葉だ。子供の頃お気に入りだった人形のような容姿、相反したぶっきらぼうな物言いに強くひかれた。

 母子家庭で決して裕福とはいえない私と社長のお父さんに翻訳家のお母さんというお嬢な晴香とは、何もかもが違っていた。だが、そんな違いなど気にならず…いや、むしろ魅力的ですらあった。晴香と距離が縮まるのに時間はかからず、たくさんの初めてを知った。夜遊びもそのひとつ。
 週末はオールで遊ぶのが定番となった頃、歌舞伎町でマリさんに出会った。いや、出会ったというのは正しくない。
「ねえ…あれって」
「友恵〜どしたの? 早く行こうよ」
 声をかけてきたサラリーマンに居酒屋でおごらせた後、カラオケかネットカフェに行くため歩いてたとき見つけたのだ。
「あの…赤いワンピの人って…」
「ん? あ〜っ、もしかして……花木?」
 派手な服を着てバッチリメイクで中年の男の腕にもたれかかっている女は、予備校で英語を教えている花木に違いなかった。 普段はシャツにパンツ姿で化粧っけもなく、いつも無表情。厳しく暗い先生というイメージしかない。
 だが、目の前にいる彼女は真逆だ。明るくキレイで、笑ったり口をとがらせたりクルクルと表情が変わる。
「いいこと考えた!」
 晴香は脅すつもりで彼女に近づいていったが、逆に返り討ちに合ってしまった。
 花木に声をかけると、『PINK☆PINK』というお店の裏に連れられ、狭いロッカールームでウーロン茶を出された。一向に焦る素振りを見せない花木に、予備校にチクると晴香が言ってもムダだった。
「どうぞぉ、別にあそこバイト禁止じゃないし」
「そんなこと言っちゃって、先生がキャバってのはマズイでしょ〜、は、な、き先生」
「ここではマリって呼んでね。あんた達のほうがマズイと思うけどな。ここ防犯カメラついてるから、うちに面接に来たって連絡してみよっか?」
 ニコニコ笑いながら、逆に脅される始末。なす術がなかった。
 花木の提案で、お互い予備校では知らぬ振りをすることを条件に、それ以外の場所では秘密を楽しむ共犯者となった。
 私たちが会うのは、お固い花木先生ではなく、陽気でどこか妖しいマリさんなのだ。


 七月に入ってすぐに予備校で最初の実力試験が行われた。受験と同じように、マークシート問題と論文が半々の受験用試験だ。
 手応えはあったと思っていたが、それほどの成績は取れなかった。
「‥‥‥中の上ってとこじゃないの」
 テーブルの上に成績結果票を置いておいた日の夜、母親とリビングで向かい合った。何度もため息をついた後で言われた言葉。
「うん、あの、手応えはあったん」
「言い訳はいい。予備校行って、その何とかっていうお友達と勉強して、トップクラスにも入れないの? 学校の方はどうなの?」
「それは、大丈夫だと思います」
「だと思う? 友恵のことは安心してたから、今まで学校のテスト結果についてあれこれ聞かなかったけど、今度の期末はちゃんと見せなさい」
「はい‥‥あの、でも」
「でも、何?」
「お母さんがいない時は」
「今回みたいにテーブルに置いておけばいいわ。いい? 友恵がしっかり自覚を持ってくれないと、あんたもお母さんも、くやしい思いをするのよ。もし期末で成績が下がるようなら、予備校が終わったらまっすぐ帰ってきなさい。それと、友達の家で勉強するのも禁止」
「ええっ、だって、友達は関係な」
「関係ないわけないでしょ。まだ子供だから、まわりの影響を受けるの。第一、それが嫌なら、勉強をがんばればいいだけでしょう。分かったわね」
「は‥‥い」
 席を立って、部屋に戻ろうとしたとき、ついでのように母親は言った。
「そうそう、あの人から連絡があって、今度の日曜はどうかって」
 父親のことだとすぐわかった。
「え、今度の日曜って‥‥明後日? 今まで、一週間前には連絡くれたのに」
「携帯に留守電が入ってたけど、忙しくて気づかなかったの。どうする? 予定があるなら断っておくけど」
 気づかなかったなんて嘘だ、そう思いながらも首を横に振った。
「ううん、平気、です」
「あそう。分かった。じゃーいつものとこでって連絡しとく」
 明らかに不機嫌になった母親に背を向けて、部屋に入った。
 本当は月に一度ではなくて、もっとたくさん父親に会いたい。けど、ただでさえ会うことにいい顔していない母親が、何て言うか考えるとそんな希望は蓋をして隠していた。


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