逃亡
第5話:夏のはじまり
その日はとても母の顔を見る気がしなくて、マリさんの部屋に向かった。連絡せずに訪ねると、一瞬驚いた顔をしたがすぐ穏やかに笑った。
「あんたらは、シンクロしてんね」
「え?」
「水原もさっき突然来たの。桐だった」
部屋に入ると、ノースリーブのシャツにデニムパンツ姿の晴香が座ってジュースを飲んでいた。
「何だ、友恵だったのか。珍しいねー突然来るなんて」
「自分だって突然来たくせに。ほら、桐も座って。せっかく二人とも来たんだし、ビールにするか」
「さすが、マリさん! ね、さっき渡したワイン冷やしておいてね」
冷蔵庫から取り出した三本の缶ビールを抱えるようにして、マリさんはテーブルに戻ってきた。
「じゃあ、夏休みに乾杯!」
「かんぱーい!」
二人に合わせてビールを少し持ち上げ、口をつけた。晴香は期末の成績のおかげで、親から臨時のお小遣いをもらったことを報告し、マリさんと二人で何に使おうか楽しげに計画していた。
その会話を耳にしながらも、頭の中ではさっきの父親との電話でのやり取りがリフレインしていた。
「桐? どした? 元気なくない?」
「本当だ。全然飲んでないじゃん。あ、もしかして、まだお母さんがうるさく言うとか?」
「えっううん、そうじゃないけど」
「じゃあ何よ。そんなくっらーい顔しちゃって」
「水原、そういう言い方はないんじゃない。何かあったの?」
マリさんに咎められて、少しむくれている晴香に何でもないと弁解しつつ、ビールをちびちび飲みながら、父親の借金が判明しそれが一緒に暮らせない原因だということを話した。
「…ていうわけだったの。考えたら、夏ってロクなことなかったな……離婚したのもそうだし、お母さんはいつも以上にカリカリしてるし」
「あーわかるわかる。家にいられるのが邪魔!みたいな態度とんだよねぇ」
「水原は夏休みに家なんていないんじゃないの?」
「バレた?」
マリさんと晴香がきゃらきゃらと笑うのに合わせるみたいに、少しだけ唇をあげてみた。
離婚した一年後の受験の夏が最悪だった。勉強漬けになるのは当然としても、二人だけの生活と、生活の大半を一人で過ごす夏に慣れることができなかった。
そして息抜きにと思い、電話したクラスの友達との会話で追い討ちをかけられた。
「そういえば、この間なんでこなかったの?」
雑談がひと段落してから屈託なく言われたその言葉は、凍りつかせるに十分な威力があった。夏休み中グループでどこかに行ったらしい。自分を除いた…ベストメンバーで。
「う…うん。そ、だね。次は…行くよ」
「そうしなよ! じゃあ、夏休み終わりくらいにカラオケ行きますか」
全身を冷たい血が駆け巡り、どうやって電話を切ったのかもわからなかった。
彼女たちに再会したのは、始業式だった。
「友恵? とーもえっ!? どうしたの? ボーっとして」
「え? ううん、何でもない。あの、そういうわけだから、今日泊まってもいい? お母さんの顔を見ると、何を言い出すか自信ないから」
「いいよ。水原も泊まってけば? じゃあ、三人で飲み明かすか」
「そうしよう!」
日付が変わるまで、ひたすら飲んでしゃべり、笑ってた。さすがに飲み食いすることに疲れ、休憩としてマリさんがいれてくれた中国茶を無言で飲んでいる時、晴香が口火を切った。
「あのさぁ、友恵はお父さんと暮らしたいの?」
突然聞かれて答えられず、晴香の顔を凝視していた。いや、晴香の口から吐き出された言葉を見つめて、かみ砕き、自分に問いかけていた。
「‥‥‥わかんない。でも、お父さんといると、自然に息ができるっていうか……穏やかになるの。もっと一緒にいたいって思うけど」
「急にどうしたの?」
怪訝な顔をしたマリさんは、火のついてないタバコを口にくわえて、晴香の顔をのぞき込んだ。
「マリさん、キャバ嬢やってるのお金のためって言ってたよね。それも借金?」
「は? ああ、うんまあ。借金つうか、カードローンだから。借金ちゃあ借金だけど。何で?」
「あのね、この間から考えてたことがあって。マリさんのおかげで、今年の夏は思いっきり遊べるし、何かおもしろいことしたいなあって思ってたの」
「はあ」
「で?」
「三人で休みの間中、旅行するのってどう?」
「は? あんた何言ってんの。んな金がどこにあるのよ」
マリさんの言葉に思わず何度もうなずいていた。晴香は勝ち誇ったように笑うと「当てがあるんだなあ」と言った。
「当て?」
「そ。しかも、二人の問題も解決するかもよ」
「どういうこと?」
思わず身を乗り出して、晴香の顔に近づいた。ニヤッと笑うと、晴香は残っていたお茶を飲み干した。
「あのね、私が登録しているデートクラブの事務所に、毎月一度、大金が保管されんのよ。クラブの売り上げ金か、そうじゃない別のやばい金かは知らないけど。その間、みんな早めに帰らされるんだけど、私ってこれでもかなり稼いでるし、もう長いから信用されてるわけ。で、そういう時でも、最後まで事務所に残って、色々確認することになってんの」
マリさんは、まだ話の途中の晴香に向かって片手を挙げて中断させた。
「もしかして、あんた」
「分かった? そ。今度の保管時期になったら、それを奪っちゃおう!」
晴香は悪戯っぽい瞳で、まるで子供が遊びに誘うように軽く言った。
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