逃亡


第7話:遠い計画


この計画には、現金を奪い、逃げて、なおかつ戻ってくるという最低でも三つのことが必要になる。
まず、奪うのにすべきことは何だろうか。いくらの現金がいつまで、どこに保管されているかという基本的な情報だ。金庫に保管されているとして、扉を開ける方法。大金を置いているのだから、見張りもついているだろう。それは何人なのか。二十四時間張り付いているのか。
 首尾よく奪えたとして、そのことが発覚したとき、まず疑われるのは晴香だろう。最後まで部屋にいた人間なのだから当然だ。その疑惑を晴らすためにすべきことは?
 当日、晴香には別の場所に行ってもらい、そのことをクラブの人間に確認させる、いわゆるアリバイを作ったらどうだろうか。しかし、現金が消えた後、晴香が姿を消せば例えアリバイがあったとしても、無意味だろう。
 逃げるのをやめて、とりあえずはお金を分けるだけにとどめておく。どうしても旅行がしたいのなら時期が過ぎるのを待って、冬にでも行く。晴香は今までと同じようにデートクラブで働き、普段と寸分たりとも変わらない生活を送る……いいかもと思ったすぐ後で頭を横に振る。
 そんな茶番が通用するだろうか。マリさんの借金や父親の借金が一気に返済されたことに気づかれたら、終わりだ。それも落ちつくまであおずけにするという手もある。だが、いつまで? これは冬というわけにはいかないだろう。一年後? 二年後? 誰にも分からない。それでは意味がない。今すぐ、できるだけ早く、息ができるようになりたいのだ。
 最大の難関が最後の『戻る』ことだ。逃げないのであればこれは考えずに済むが、逃げるという選択をした場合、避けられない大きく高いハードルだ。
 逃げた場所に戻る。どうすればそんなことが可能になるのか。騒ぎが落ちついた頃を見計らって戻ることは、もしかしたら可能かもしれない。だが、それにはどれくらいの年月が必要なのか。逃げずに落ちつくまで待つのと同じだ。
 まだハードルはある。時期がきて運よく場所には戻れたとしても、生活にはどうやって戻る? 学校の先生や友人、予備校、家族。何て説明すればいいのだろう。
ちょっと友達と旅行に行ってた? ちょっとですむ期間ではない。それに途中で居場所を伝えることもできないのだ。
 結局、問題点を思いついただけだった。だが何もしないよりはマシというものだ。引き出しから、ルーズリーフを取り出す。一枚を『奪う』『逃げる』『戻る』の三つのブロックに分けて、それぞれ思いついた問題点を書き込んでいくことにした。

 翌日、じっとしていられなくてお昼頃には家を飛び出しマリさんの部屋に向かった。
 一時前には部屋のドアの前に立ち何度かためらった後、チャイムを鳴らした。返事がなかったので、続けて二度、三度を鳴らす。
「‥‥はい、誰?」
 ドアが少し開き、低くかすれた声がした。寝起きなのだろう。
「あ‥桐です。寝てた?」
「桐か‥‥どうぞ」
 ドアが大きく開かれると、男もののシャツだけを着ているマリさんが現れた。髪は無造作に結ばれて、化粧もしていないようだ。
「お邪魔しま、す。あ、これ、ケーキ」
「ああ……コーヒーでいい?」
 部屋に入ると、マリさんはすでにキッチンに立って、薬缶をコンロにかけていた。
「は、はい。起こしちゃったみたいで、すいません」
「んーまあいいよ。そろそろ起きようと思ってたし。でも、どした?」
「え? あ、あの、これ冷蔵庫に入れていい?」
「うん、入れといて。で、こんな早くに何か用だったの?」
 小さな冷蔵庫の扉を開けて、ケーキの箱を放り込む。調味料と飲み物以外、ロクなものは入っていない。
「え、あの、今日、晴香と」
「ああ、あの話ね。ふうん、桐はどう思ってんの?」
 湯気が立っているマグカップを二つ抱えて、マリさんがキッチンから出てくる。一つを受け取り、小さなテーブルのそばに腰を下ろした。
「どうって?」
「やれると思ってるかってこと」
 昨日、ほんの少し考えただけでも嫌になるくらい問題が出てきた。やれると言い切る自信はとてもじゃないけど、ない。
「‥‥‥や、やりたいとは思う」
 少し考えた後で、噛み締めるように口にした。マリさんはテーブルの上にあるタバコに手を伸ばして、深く煙りを吸い込みゆっくりと吐き出した。スッピンで髪もただ結んでいるだけ、パジャマ代わりのシャツを着ているマリさんのその仕草は、何故か見とれるくらい優雅だった。
「やりたい、ね。できると思う?」
「マ‥‥マリさんは、できないと思ってるの?」
「当然。できると思う理由がないでしょ」
 分かり切っていることを聞くなと言わんばかりの口調。そんなことないと言い返せないのが辛かった。


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