0(ゼロ)の男
第2話:雲英(下)
「イトウです。僕、イトウです」
聞きもしないのに名を名乗り、
「ダイコクさん」
と教えもしないのに馴れ馴れしく呼ぶようになった。ダイコク、は確かにこの店の男の渾名である。常連客や取引先がそう呼ぶのを聞いてイトウも倣っているのであった。
「ダイコクさん、本名は何ていうんですか?」
と通い始めて三日目に聞いた。
「おおぐろ」
とダイコクは言う。別に教えてやれない理由もない。あ、とイトウは存外に飲み込みが早かった。
「だいこくや、じゃなくて、ホントは、おおぐろや、なんだ。」
店の屋号である。
「そう」
とダイコクは言った。表の看板には大黒屋と大書されている。
「大抵は、だいこくや、って読むね」
屋号としては確かにこっちの方が商売繁盛しそうである。
「おおぐろ何、ですか?」
どうもイトウはダイコクに興味があるらしい。でも、別に教えられない理由もなくて、
「おおぐろなむち」
「はあ?」
イトウは一度では聞き取れない。
「なむち、だよ。」
大黒那牟智と紙切れに書いてやる。思い切り妙な名前である。
「何ですか、那牟智、ってのは」
「那牟智、ってのは蛇、の意味だよ」
巳年生まれなのと那智の出身だったのとで爺さんがつけてくれたとダイコクも説明には慣れている。
「変わった名前ですね」
大抵の者はそう言った。
「僕、」
とイトウ。
「オカルト研に入っているんです」
名前の話題はそれで終わったようだった。イトウが自分の話をしないのは自分の名前が嫌いだからかもしれない。でも、別に聞かなければいけない話でもない。
「おかるとけん?」
とダイコクも一度では聞き取れない。
「オカルト、ですよ。幽霊とか怪奇現象とかを調べているんですよ」
「どうも最近の若い者のすることはわからんね」
とダイコクが嘆息するとイトウはむっとしたようだった。珍しく憤慨の気配を見せて、
「この世には目に見えない物が存在していても別におかしくないと思いませんか?」
人には誰でも譲れないものがあるものだが、きっとこれがイトウのそれだったのだろう。
「そりゃあ、まあ、賛成だがね」
とダイコクは逆らわない。その返答は満足だったと見えて、イトウは恍惚と空(くう)を仰ぐ。そして、
「僕、一度でいいから、幽霊、見てみたいなあ」
と呟いた。ダイコクはやっと顔を上げる。
「何だ、見たことねえのか?」
「ありませんよ、そりゃあ」
ダイコクはあきれて、
「それでよくオカルト研なんてやってんな」
「だって、幽霊ってそんなちょいちょい見えるもんじゃないでしょう」
「そうかあ?」
「そうですよ」
「俺はちょいちょい見てるけどなあ」
と言ったのがまずかったのだろう。この日からイトウの大黒屋通いが本格的に始まった。
「最近では、いつ見たんですか」
とイトウは店に入ってくるなり一直線にレジの所まで来ると、開口一番そう言った。折角来るのだから本棚の一つでも眺めてくれればいいのに、とダイコクは思うが、そういうことには気がつかない。入り口から店内を覗くと真正面にレジが見えるから居留守の使いようもなかった。
「そうだな、」
とダイコク。別に言えない理由もなくて、
「最近、だと、…ホラ、」
と外を指差す。イトウはひっと肩をすくめて指の先を怯えたように見た。ダイコクはあきれて、
「馬鹿か、お前は」
「だって、」
「ほら、そこの先にコンビニ、あるだろう?」
「え、ええ、ええ、ありますけど」
「あそこ」
「は」
「幽霊だよ」
「幽霊が、ですか?」
「うん」
「…コンビニで何してるんですか?」
「雑誌、立ち読みしてる」
「…ダイコクさんっ、」
イトウはいきなり声を荒らげた。
「実はオカルト嫌いなんでしょうっ!」
まるで大袈裟に声を裏返して叫ぶ。ダイコクにはわからない。
「…なんで?」
が、イトウはまるで聞いていない。ますます憤って、
「オカルトが嫌いなもんだから、僕を馬鹿にしているんだ!」
「…だから、何で?」
「そんな、コンビニで立ち読みしてる幽霊なんて、子供でも信じませんよっ!」
「なんだ、信じねえのか」
とダイコク。別に信じてもらう義理もない。
「ま、普通は信じねえよなあ、コンビニの幽霊なんて」
とだけ言うと無表情に顔を伏せた。手元の文庫本に目を落としたのである。
「…何の本ですか?」
「『古代国語の音韻に就いて』。」
「何ですか、それ」
「橋本進吉博士を知らねえのか?」
「知りません」
これだから今時の大学生は、とダイコクはぼやく。
「そんなことより、」
とイトウ。今時の大学生にとって橋本博士はそんなこと、である。
「そのコンビニの話、」
「ああ、信じたくなきゃしょうがねえけど」
「本当なんですか?」
「…あんた、からかってどうするんだよ」
ダイコクはあきれて顔を上げる。
「きっとあんたの言う幽霊って、もっとおどろおどろしてて怖ろしいもんなんだろうな」
揶揄るようにそう言った。
実際、一番現実に搦め取られているのは案外こういう奴らだろう、とダイコクは妙に納得する。
「ダイコクさん」
現実の虜囚が顔をぐいっと近づけた。
「連れてってください」
「コンビニに、かあ?」
「はい」
「一人で行きやがれ」
子供じゃあるまいし、とダイコク。が、
「お願いします」
両手をついて頭を下げられてしまった。ダイコクは嘆息する。
「それじゃあ、今夜来い」
「夜ですか!」
「普通、夜だろう!夜がこわくて幽霊見たいなんて言うなっ!」
「…ハイ」
妙に元気のない声が応えた。別に一緒に行ってやる義理もなかったが、何だかこの男につきまとわれる方が怖くて厄落としの意味でつき合ってやろう、と思ったのだった。退屈しのぎの気味もあったが、何だか、現実の虜囚に搦め取られたような気分だった。
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