0(ゼロ)の男


第3話:コンビニ(上)


 雲英一丁目は住宅街だ。

かつては炭鉱関係の事務所が多く立ち並んでいたが、今ではそうした古びた町並みは一掃されて、口を拭ったように真新しいマンションが建っていた。特にワンルームマンションが多いのは大学が近いせいだろう。おかげで角のコンビニは深夜でも客に不自由しなかった。女性客が遠回りするような本のコーナーにも、正体不明の男達が毎晩同じ顔ぶれで、同じ順序で、お行儀良く並んで立ち読みをしていた。お行儀いいのは別に礼儀正しいわけではなくて通路が狭いから自然そうなるだけの話である。人間に礼儀を教えるのはつくづく環境だな、とダイコクは思ったりもするが、それもどうも違うような気もする。その無言の列に、九時頃になるといつも黄色いブルゾンを着た若い男が加わる。どっかの赤い野球帽をかぶって洗い晒しのGパンにスニーカーを履いた、いつも見ても同じ格好。いつもコンビニの硝子戸を押して入り、脇目もふらずに雑誌のコーナーへ行く。そして、いつも列に並んでお行儀良く雑誌を立ち読みしている。本人も回りも気づいていないようだったが、その実、とっくに死んでいる男である。あるいはこの男に気づいている者の方が少ないかもしれなかった。

「気にならないんですか?」

とイトウは息巻いて聞いた。

 夕方六時を回る頃にやってきて迷惑この上ない。

「夜の九時だって言っただろう」

「だって、怖いじゃないですか」

と言われて文句を言う気も失せた。

「幽霊なんて、」

とダイコクは店のシャッターを下ろしながら、 

「いちいち気にしていたらきりがないよ」

「そんなもんですか」

「そんなもんだよ」

俺も気にしないし、あっちも気にしない。

「興味をもって憑いてでも来られたらそっちの方が怖いじゃないか」

お前みたいに、と言いたかったが、さすがにダイコクもそこまでは言わない。そういうこととは露も知らず、へえー、とイトウは感心する。

「ダイコクさんでも怖いんですか?」

「当たり前だ」

俺を何だと思っているんだ、とダイコク。

「見える人はみんな、超能力かなんかあるんだと思ってました」

「あのな」

「だって、幽霊をお祓いできたりする人いるじゃないですか」

「俺はできないし、やりもしないよ」

「でも、」

とイトウはつと下を向くと、

「何かにその力、生かさないと勿体ないですよねえ」

と呟いた。その様子が、まるで道に落とした大福餅でも見ているようで、ダイコクはおかしい。ダイコクじゃなくてダイフクだ、と一人ごちながら、

「そうか?」

と答える。そんな力があったってなくったって世の中は回っている。

「俺はさ、」

とダイコク。

「何にもしないよ」

「何にも?」

「そう。何にもしない、ちょうど針の振れない真ん中あたりが居心地いいね」

「針って、気持ちの針ですか?」

「うん、感情の針だね」

その針を静かに真ん中に置いておく。

「目盛りでいや、ゼロ、だな。ゼロでいるのが気持ちいいね」

大きく動く気持ちを静かにゼロに置いておく。激しやすい感情を御してそうっとゼロにしておいて、それで見えてくることもある。

「かっこいいな」

とイトウ。

「ゼロの男ってやつですか」

「あんたは?」

とダイコク。

「僕はヴァーチャルな男です」

ゼロの男は笑った。

「よおうく自分でわかってるじゃねえか」

ついでに煩悩の男だ、と揶揄ると、今度はイトウは怒った。それは自覚していなかったらしい。

 そんなこんなで夜も更けた。

 二人は連れだって出かける。

「遅くなってしまいましたね」

とイトウ。

「お前が戻ってこないからだ」

とダイコク。九時までには時間があり過ぎて、時間つぶしに、とイトウはどこかへ出かけ、結局、戻ってきたのは十時近くになってだった。

「お前、」

とダイコク。

「ビール飲んできただろう?」

「わかります?」

ダイコクは応えず、

「畜生、俺も飲んでくればよかった」

と一人ごちた。

 ガードレールをまたいで車道に出る。左右を見ても車のライトは見えない。住宅街だけにこの時間帯は静かだった。遠くでかすかに車の走り去る音が聞こえたが、すぐに途切れてしまう。何か聞こえてふと耳を澄ますと、それはたいてい自分の呼吸の音なのだった。足音だけに耳を済まして歩いていると直に闇の中に光の箱が浮かび上がる。角のコンビニである。

「いますかね」

とイトウ。幽霊のことである。

「そうだな」

とダイコク。

 確かにこんなに遅くは来たことがない。コンビニの硝子戸に手をかけて大きく押してドアを開けると、いらっしゃいませ、と明るい声が店内に響いた。

 あ。

 ダイコクは思わず立ち止まる。

 ドアからまっすぐの雑誌のコーナーに今日も男達がお行儀よく並んで立ち読みをしている。

「いますか?」

とイトウが聞く。

「見えないか?」

「見えません」

「──雑誌のコーナーのところ」

背広と黒いジャケットと学生服が並んでいた。

「背広のすぐそば、通路のところ」

黄色いブルゾンに赤い野球帽、洗い晒しのGパンにスニーカー。

 が、どうしたのだろう。ダイコクはわけがわからなくなった。

「ど、どうしたんですか」

イトウが狼狽えた。既にパニックを起こしかけで聞く。

「幽霊が、」

「ど、どうしたんですかっ!」

素っ頓狂な声を上げて、レジの前の店員が迷惑そうにこちらを向く。

 ダイコクにはわからない。

「あいつ、こっち向いてる…」

今夜に限って、幽霊は赤い帽子を目深に被り、庇の下から暗い目を覗かせて、通路に仁王立ちになって立っていた。黄色いブルゾンのポケットに両の手を入れて、少し頬を膨らませている顔は微かに笑んでいるようにも見えた。

 あ。

「こっち来る」

イトウはあわてて通路を見るが、やはり何にも見えない。

「ダイコクさん!」

イトウが狼狽していたが、ダイコクはとりあえずそれよりも幽霊だった。

 死んだ男はゆっくりとこちらへ近づいてきていた。どんどんどんどん近づいてきて、ダイコクとすれ違う。ダイコクは狭い硝子戸の隙間をからだをかわして空けてやった。が、幽霊は一瞥もくれず、それでも、からだを斜めにしてその隙間をすり抜ける。目の前を赤い野球帽がかすめて通る。布地の織りまで見えていて、生きた人間とも思えるが、その向こうにイトウが透けて見えて生身であるはずはなかった。目で死んだ男の後を追う。透けた後ろ姿が闇の中へ溶けるように遠ざかりつつあった。

「行こう」

とダイコク。

「一体、何があったんですか?」

「出て行っちまった」

「え」

「つけよう」

そう言うなり、ダイコクの手が硝子戸から離れる。静かに閉じようとするドアには目もくれず、ダイコクとイトウは闇の中へと走り出した。


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