0(ゼロ)の男


第4話:コンビニ(下)


何かまずいことをしたのかもしれない。

暗闇の中を走りながらダイコクは思う。針はゼロに置いておくと決めていたのに。胸のあたりがざわざわした。

 目の前の闇に辛うじて見える白いスニーカーを追って、ダイコクは走った。自分の息遣いだけが異常に大きく響く。それでも目の前のスニーカーを見失うまいと必死に目を凝らして追った。白いスニーカーがまるでスローモーションを見ているみたいにゆっくりと地面を蹴る。もう一方の足が追いすがるように宙に浮く。もう一度。そして、もう一度。そのペースは少しずつ遅くなるように思われた。そして、もう一度。もう片方が地面を蹴る。そして、もう一度。が、宙に浮いた足はもう地面に下りてはこなかった。

 見失ったか。 

 ダイコクは辺りを見回す。

 が、やはり辺りには何もいない。ふと右手が明るくて、気がつくといつのまにか歩道沿いのビルの前に立っていた。黒っぽい外壁。見上げると通路の電灯が煌々と闇を滲ませている。数えて五つの通路が縦に並んでいて、一階を加えて六階建てのようだった。

「どうなったんです?」

はあはあと息をはずませながら、イトウはようやく追いついて息と同時に掠れた言葉を吐き出した。そして、ようやく目の前に聳えるビルに気づいて、

「ビルですね」

言わずもがなのことを言った。

「幽霊は?」

「ここで消えちまったよ」

「じゃあ、このビルに?」

「さあ」

言って気がつく。ビルの入り口の前、何か光っている。何だろう。ダイコクが拾い上げる。急にしゃがみ込んだので驚いたのだろう、ひいっとイトウが声を上げた。ダイコクはあきれるよりおかしい。

 拾い上げてみると、それは銀色に光る腕時計だった。落として間がないのだろうか、ガラスに傷もない。文字盤に一つ一つ石が埋め込まれていて、細い針がちっちっちっと時を刻んでいた。

「高そうな時計ですね」

おずおずと覗きこみながらイトウが言った。

「もらっちまおうか」

冗談めかしてダイコクが言う。

「幽霊のかもしれないですよ」

「よせよ」

と笑った。

 もう一度ビルを見上げる。

「もういいです。帰りましょ」

急にこわくなったのか、イトウは言った。

「もういいのか」

「ええ」

で、とイトウ。

「今晩、泊めてくれませんか?」

「馬鹿野郎、とっとと帰りやがれっ」

「だって、怖いじゃないですか!」

「幽霊、見える奴といる方がもっと怖いんだぞ。憑いていることあるからな」

「…やっぱりタクシーで帰ります」

イトウとはそこで別れた。

 ダイコクはジーンズの膝のあたりを手で払う。埃を払ったつもりだったが、他の何かも払ったような気がした。それが何なのか、その時は自分でもよくわからなかった。

 一張羅の皮のジャンバーに首をすくめ、ポケットに両の手を突っ込む。どこかで犬が遠吠えしていた。

「さて」

と一人ごちて、家へと帰る。家はあの古本屋の二階である。

 

 ぎしぎしと古い二階家は歩くたびに音を立てる。階段は狭く、おまけに急勾配で暗かった。戦前から残る木造二階家であるが、建て替える気は今のところない。金もないし、何よりも祖父が残してくれた形見でもあったから急いで崩す気にはならなかった。木の部分はとっくに飴色になっている。飴色の壁沿いに飴色の段を踏み上がる。上がり切ると二階である。八畳一間しかない。畳の部屋の真ん中には大きなマットレスが置かれている。周囲に沿うようにビールの空き缶が五、六個並べられていた。空き缶はいつもこうして置いていく。置くところがなくなったらゴミ袋を買う。雲母の町では指定されたゴミ袋を買わなければならないのでつい面倒でそういうことになる。缶が一個、転がっているのをダイコクは拾って立てる。缶が倒れると中の滴が畳を濡らして嫌である。別に神経質なわけではない。ビールの滴で汚れた畳を掃除しなければならないのが嫌なのである。しばらくはこの家に住むつもりであるから、早く家が傷むようなことには敏感になっているだけのことである。ついでにできれば掃除もしなくて済ませたい。

枕元には母親が結婚の時に持ってきたという大きな箪笥が置かれていた。正面が観音開きになっていて、大人が一人裕に入れるほどでかい。本当に子供の頃は従兄弟達と隠れん坊に使ってこっぴどく叱られたことがある。やっぱり飴色で今も中には服を入れている。大した服もなくてついでに本棚にもなっていた。そういや、カセットテープもCDも入っている。下の抽出には使えなくなった黒い電話機が入っていたような気がする。財布も入れていたような気がする。

あまり片づけは得意ではなくて、部屋じゅういたる所に新聞や脱いだズボンが放ってあった。台所やトイレは一階である。この部屋には寝るためだけに戻ってくる。

何だかひどく疲れてダイコクはそのまま、マットレスの上に倒れ込んだ。皮のジャケットを脱ぐと、ぽーんと放る。ジャケットはマットレスの足元にぱさりと広がって落ちた。ダイコクの他には誰もいなかったから、次に着るまではそこにあるままである。

 そのまま、寝ついたのだろう。夢を見た。

 自分はマットレスの上に寝ていた。眠った時と同じ格好で夢の中でもダイコクはマットレスに寝ていた。放ったジャケットまでがそのままだった。何だかひどく寝苦しくて彼は夢の中でもがいた。毛布を抱えて、ひどく苦しかった。そんな自分を誰かが見ている。そして、笑っていた。女の声のような気もした。笑っている。笑い声が聞こえる。

 誰だ。

 そう自分は言ったような気がする。

 やっと。

 声はそう応えたような気がする。というより一人ごちた感じであった。

 やっと?

 何かがからだに巻きついてくるのを感じる。もがきながら聞き返す。

 蛇よ。

 彼の問いには応えはなく、ただそう聞こえた。

 蛇?

 何で蛇が俺のからだに?

 あら、だって、これはあなたにあげるのだもの。

 何を言っている。

 俺は蛇なんかいらない。

 でも、あげる。

 からだがしめつけられる。彼はあえぐ。

 腹から脇から背中から胸にかけて何か長くて太いものがずるずると巻きついてくる。

 ぬめりとした感触がひんやりと肌に張りついてひどく気持ちが悪い。

 やっと手に入れたわ。

 と女が言ったような気がする。

 苦しい。

 彼は喘いだ。

 俺は蛇なんかいらないんだ。

 もう一度言うと。

 あなた、那牟智でしょ。

 そう言って女の声が笑った。

 脇腹が締めつけられる。

 肋骨が折れそうになる。

 とうとう声を上げた。

 ずるずると巻きついていく。

 やめろやめろやめろ。

 脇腹がぎしっと音を立てた。

 骨のきしむ音。

 激しい痛みが走る。

 鎌首が持ち上がった気配がして、それっきり気を失った。

 目が覚めると朝だった。


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