動物園


第1話:1


 娘は目にみえて緊張していた。助手席のチャイルドシートにちょこんとおさまった娘は、膝のうえで両手を組み、視線をその手に落としている。
「どうした?」
 わたしが声をかけると、娘はびくりとして顔をあげた。あわてて首を横にふる。わたしはくすりと笑った。
「そんなに緊張することはないよ。ただ動物を見にいくだけさ」
 娘はこくん、とうなずいて、また目線を落とした。
 郊外へ向かう道は混雑していた。休日なので仕方ない。カーナビに交通情報を訊ねたが、どの道を通っても大差ないようだ。ならば通いなれた道のほうがいい。わたしはこのままこの道を進むことに決めた。
”国立動物園まで○○Km”
 大きな看板が頭上を通りすぎてゆく。だが娘はまるで気づかない。顔を伏せたまま、手を膝のうえで固く組んだまま。
「もうすこしで着くよ」
 そう伝えると、娘の肩がまたびくりと震えた。さらに緊張が増しているように見える。――無理もない。動物園へ行くのは、娘は今日が初めてなのだ。
 私は何度も訪れている。五年前から毎年、おなじ日に動物園へ行くことにしている。去年までは一人で訪問していた。今年は娘と一緒だ。娘は今年の春、小学校に入学した。そろそろ動物たちを見物してもいい年齢だ。
 動物園を訪れることの利点は計りしれない。子供の教育にこれほど役立つ施設はないと、わたしはそう考えている。おそらくはほかの親たちも同意見だろう。動物園の訪問客は年々増えているそうだから。
 現に、この道も混雑している。動物園へ向かう道は、家族づれの車でいっぱいだった。

 ようやくたどりついた駐車場は、すでに車で埋まっていた。やっとのことで空きを見つけて車を降りたときには、開園時間を一時間も過ぎてしまっていた。
「さあ、行こう」
 娘に手をさしのべる。娘は強ばる手でわたしの手を握った。不安たっぷりの目で、あたりを見まわす。
 何組もの親子づれが、駐車場を横切ってゲートへむかっている。子供たちの表情は様々だ。娘のように緊張した子もいれば、慣れた様子ではしゃぎまわる子もいる。興奮を押さえきれずに走りだす子も。だが親たちは、どれも同じく無表情。わたしと同じく、感情を押し殺して表には出さずにいる。
 父親と母親の手に、ぶらさがるようにして歩く子供が目にとまった。――わたしの胸は痛んだ。娘には母の記憶がないのだ。
 娘の手をひいて、わたしたちも流れに加わった。
 ゲートへ通じる小道の時点で、すでに行列ができていた。最後尾に加わって正面を向くと、そびえ立つ灰色の壁が見える。無味乾燥なコンクリートの塀が、動物園の敷地だ。
 行列のなかの娘には、巨大な塀の姿は見えない。人ごみに埋もれ、落ちつかなげにきょろきょろと視線を動かしている。右手はわたしの左手を握って放さない。
 のろのろと行列は進む。まわりの子供たちは焦れて騒ぎはじめている。その相手をする大人たちも焦れてきたころ、ようやくゲートが見えてきた。
 動物園の外観が、娘の目にも届いたようだ。娘が息を呑む気配が、ちいさな手を通じて伝わってきた。
 灰色の壁で仕切られた広大な空間、それが動物園だ。はるかに高い塀の上には有刺鉄線、点在する監視台には飼育員の姿も見える。凶暴な動物を外へ出さないための設備だが、見るものを威圧する効果も十分にある。
 幼い娘にとって、それは恐怖の光景そのものだったようだ。わたしの手のなかで、娘の手が震えている。娘を安心させようと、わたしは握る手の力を強めた。小さな手が握りかえしてきた。
 巨大な壁の正面にぽっかり開いている、唯一の出入口であるゲート。行列が遅々として進まないのは、ゲートの手前で入念なチェックが行われているためだ。見物客の列はじりじりと進み、ようやくわたしたちの番がやってきた。
 飛行場のそれと同じような、保安用のスキャナーをくぐる。鈴しげなチャイムが鳴って、わたしは列からはずされた。制服姿の飼育員が、棒状の金属探知器でわたしの身体をさぐる。ポケットからキーホルダーと財布が取り出され、探知器はおとなしくなった。
 なかには別室に通され、さらに厳重な検査を受ける客もいる。それは仕方ない。動物園の運営には必要な措置なのだ。さんざん待たされて苛立っているはずの客も、不平ひとつ言わずに飼育員に従っている。数年前に一度、わたしも別室に通され、下着まで脱いで検査を受けた。今年は運のいいほうだ。
 わたしが検査を受けるのを、娘は泣きだしそうな顔で待っていた。検査を終えて歩み寄ると、娘はわたしの腕にしがみついた。
 なかば娘をひきずるような格好で、わたしは先へ進んだ。入場券を買い、ゲートをくぐった。



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