動物園


第2話:2


 一歩足を踏み入れたとたん、娘はわたしの手を放して耳をふさいだ。
 工事現場のような騒々しさだ。笑い、泣き、さけび、喚声をあげる子供たち。その子供を呼びとめようとして果たせずにいる大人たち。それらの声にまじって、ときおり動物たちの鳴き声がひびく。
 娘を脅えさせたのは、その鳴き声のようだった。耳だけではない、目もきっちり閉じている。わたしは娘の肩を抱いて、耳元に口をよせた。
「怖がらなくていい、大丈夫だよ」
 わたしの声が聞こえたかどうかはわからない。だが娘は手をおろし、おそるおそる目を開いた。ゆっくりと頭をめぐらし、伏せ目がちにあたりを見まわす。
 娘の目には異様に映ったことだろう。周囲の喧燥とはあまりに異質な、殺風景な施設。正面と左右にアスファルトの通路が伸び、ところどころに動物の入った檻が点在している。檻は灰色、通路も塀も灰色。わたしたち見物客の姿がなければ、ここはグレイ一色の空間。客が休憩するためのベンチや水飲み場はあるが、売店や食堂の類は存在しない。ここは遊戯施設ではなく、教育のための場なのだ。
 ゲート手前の行列で焦れていた子供たちは、さっそく手近の檻に群がっている。この場所からでは檻の中までは見えない。娘にとっては、それが幸いかもしれない。凶暴な動物の姿が目に入ったら、なおさら脅えることだろう。
 目的はこの檻ではない。それに、ここは混雑しすぎている。わたしたちは移動することにした。

 いくつかの檻を通りすぎる。娘の足にあわせて、わたしはゆっくりと歩く。
 周囲は変わらず騒がしい。動物を見てはしゃぐ子供、見えないと怒りだす子供、怖がって泣きだす子供。我が子をおとなしくさせようと、親も大声を出さなければならない。
 娘は脅えている。地面に目を落し、決して顔をあげようとはしない。ときおり喧燥にまじって聞こえるバシッ、バシッという耳障りな音に、驚いて肩を震わせる。
 音が連続して聞こえたとき、娘がわたしの手をひいた。わたしは娘の口元に耳をよせた。
「あの音、なに?」
「ああ、あれは電撃棒の音だよ」
「電撃棒って、なに?」
「電気の流れる棒だよ。それで動物をつつくんだ」
「つついて、どうするの?」
「痛めつけるんだよ、動物を」
 わたしの説明に、娘は納得した様子はない。顔をあげて檻のほうをちらりと見たが、鋭く響いた音にすぐ目を伏せてしまった。
 しばらく歩くと、見物客の姿も減ってきた。子供たちも落ちついて、檻のなかの動物を興味深げに見物している。
「見てみるかい?」
 檻のひとつを指さす。娘はうつむいたまま、こくんと小さくうなずいた。――いずれは反抗期も来るのだろうが、いまのところはまだ、娘はわたしの言葉に逆らうことはない。娘の手をひいて、檻に歩みよった。
 分厚いコンクリート製の、小さな建物。面積は八畳ほどだろうか。三方は灰色の壁、正面の一面のみが開いて、太い鉄棒の柵で見物客と仕切られている。凶暴な動物の爪が客に届かぬよう、柵は二重になっていた。
 一方、客の操る電撃棒は楽に動物を捉えられる。かなり数が減ったとはいえ、檻の前には十数人ほどの見物客が並んでいた。うち幾人かは――たいていは子供だ――電撃棒を手にしている。
 電撃棒には柵の隙間よりも大きな鍔があり、檻のなかの動物に奪われることは決してない。柄からは鎖が伸びて檻につながっているので、檻から持ち出すこともできない。動物を痛めつけることのみを目的とした、極めて安全な器具だ。手元のスイッチを入れると、先端から高圧電流が流れる。
 この檻でも、数人の子供たちが電撃棒を操っている。バシッ、バシッと鋭い音が響き、檻のなかに閃光が走る。ときおり動物の呻くのも聞こえるが、見物客が邪魔になって姿は見えない。
 わたしに見えないのだから、ちいさな娘にはなおさらの事だ。いまだ脅えの表情は残っているものの、好奇心もあるのだろう。視界を遮る見物客の背中をきょろきょろと見くらべている。
「”ニンゲンモドキ”、だってさ」
 わたしはプラスチック製のプレートに書かれた動物の名前を読んでやった。プレートは他の情報、動物の特徴や経歴についても述べているのだが、詳しく読み聞かせてやるには、ここは騒々しすぎる。
「ちがう檻にいこうか」
 娘がこっくりうなずいて、わたしたちは檻の前を離れた。



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