ウンメイ弄び


第2話:黒い雨の日


…朝から雨が降っていた。

まるで土砂でも混じっているのかと錯覚させるような黒い色をした雨の中を、
俺は必死に駆けていた。

傘はさしていない。
今の俺にとってその数秒の時間でさえ惜しかったからだ。

自らの身体を濡らし続ける雨はまるで粘着物質のようにねっとりとした感触で、衣服と肌の間に入り込んだそれが自らの流した汗と共に、
双方をべったりと引き合わせていた。

やがて毎日の中で見慣れた場所にたどり着くと、
誰もいない薄暗い屋内の中、
誰に断るわけでもなく、
もはや内部にまで侵食して歩き度にその身体から貯まった水を掻き出すようにぐしゃぐしゃと音を鳴らす靴を脱ぎ捨てて、
濡れたままの身体でフローリングの廊下を濡らしながら奥に進んでいく。

ただでさえ薄暗いその屋内を黒い雨がそれをさらに深く、そして昏く塗り潰していく。

でも何故だろう……。
俺が歩く前に既に廊下は『濡れて』いた。

昏くてそれは視認出来ないが確かに『濡れて』いる。

昏い中を濡れた身体があるくびちゃびちゃという音だけが場を支配する。
それだけ生の存在を拒み、また感じさせないほどに静かだった。

昏い廊下を歩いたのもほんの数秒のこと。

すぐに黒く染まった廊下を照らす明かりが、
わずかに開いた扉から漏れていた。

俺は迷う事なくその扉を開き、
黒い雨が降る外と、
昏い廊下が繋いでいる部屋の中へと踏みいった。

するとそこに入ると同時に漂ってきた、
目眩を誘うような生温い空気が俺の身体をその場で制止させた。

……冬の雨の中を走り、
自らの呼吸器官が必死に空気を求めるように、
喉元から身体全体を震わせるように流動し、
寒さで悲鳴を上げている身体が、
文字通りその活動を制止させたのだ。


やがて少しずつ脳に近い部分からその活力を取り戻していく。

まず視界に入ってきたのは今までの昏くて深い闇とは似ても似つかぬ、
白い天井の電気の光と、
その天井でさえも塗り潰す『赤』。

次に嗅覚。
思わず嘔吐感を呼び起こすかのような生臭い臭い。


そして脳が神経を通して身体全てに伝達する。


そのあまりの光景に身体が奮え、
そして汗が流れ出す。

そこには……いつからそこにいるのか俺同様に身体を濡らした女が立っていた。

手には市販のカッターナイフ……『らしきもの』が握られている。
その物全体が赤く染まり、ところどころにこびりついた薄い『肌色』。
もはや金属部分は覗かせておらず、
持ち手の部分も元は何色だったのかは分からない。


その持ち主、『彼女』は、
生きているのか死んでいるのか分からない佇み方で、
そしてとにかく『濡れて』いた。
同じ濡れている者同士でも明らかに俺とは違う。

俺は雨による水濡れでありその色は透明色だ。

しかし『彼女』は明らかに色が付いていた。

濡れ方は俺同様に、
あたかも激しい雨の中を駆け抜けてきたようなにずぶ濡れなのだが、
それならばそんな色のわけない……、
ないんだ……。
俺同様透明でなくてはならない……、
ならないのに……。


やがて視界に入ってくる情報を元に整理されていく『彼女』の姿。

僅かに本来の色を覗かせる顔立ちと髪型。

それらから呼び起こされる記憶の中の姿。

その処理にどれだけの時間を要したか、
長い時間だったかあるいは一瞬か……。

しかし普段だったら間違いなく瞬時に『彼女』の正体が呼び起こされていたことだろう。

何故なら『彼女』の正体は誰よりも俺が一番よく知っている姿なのだから……。

「あ………がっ………うっ……くっ……」

名前を呼ぼうとして声がうまく出せない。
普段あれだけ呼び慣れた名前なのに………!

……必死の努力も空しく、声を出せずにいると、
ただ力無く佇んでいた『彼女』の口元の線が……横に伸びた。
静かに……ほくそ笑むように……。
今まで見たことのない嗤い方に、
ただぞっと背中を震わせた。

「……ないの。」

不意に聞こえてきた先の見えない深い底から搾り出すような声。
最初の方が聞き取れずに、

「……えっ?」

と聞き返してしまう。

「だから………ないの。」

ぼそぼそと消え入りそうな声で呟くのだが、
どうしても肝心なところが聞こえない。

そして再び口元が動いた。しかし今度は今までと違った。
まるで世界の時の進みが緩やかになったように、
スローモーションの動き。
俺の全神経がその口元を読むことに注がれる。
まず最初の言葉−

……『イ』

ややあって次の言葉。

……『タ』

そして……。

……『ク』

「ないの。」

一文字ずつ綴られたその言葉を最後は今まで同様そう締め括った。
俺は焦躁とした頭の中でその言葉を紡いでいく。

イ……タ……クないの

イタクないの

言葉をようやく紡ぎ終えると、
次にそれを意味のある言葉に変換する。
その作業はすぐに終わった。

『痛くないの』

「あっはははははははははははははははははははははははははははっ」

そこまで認識すると同時だった。
突然この世のものとは思えないほどの嗤い声が俺の脳を塗り潰し、……埋め尽くした。

そして数十秒その嗤いが続いたと思うと、
前触れもなくその声が止んだ。
しかしそれと同時に赤と肌色にまみれたカッターナイフを持った手が振り上げられた。
その一閃は真っ直ぐ躊躇いもなく顔の高さまで上げられた自らのもう片方の手の平へと向かい、
まみれたとはいえ一寸も鋭さを失っていなかったそれはあっさりと手の平に突き刺さり、
ぶしゅっと血を吹き出しながら手の甲へと貫通した。

「イタクないっイタクないっイタクないっイタクないっイタクないのっ! あっははははははははははははははははははははっ」

発狂したかのように雄叫びとも取れる声を上げながらカッターナイフを握った手は、

ぐり

ぐり

ぐり

ぐり

まるで何かを掻き回すように傷口を刔りだす。
手の平というのは五本の指を動かすためのはりめぐらされた神経や血管などが集結する場所。
そこに刃物を突き立て刔るということは想像するには余りある苦痛のはずだ。
が、まるで意に介していないその行動と、
そして常軌逸した嗤い声。

その形容しがたいその光景に俺は思わず下半身が麻痺したように入口の廊下に尻から地についた。

そうしている間にも手の平を刔る行動は止まらない。

ぐり

ぐり

ぐり

ぐり

「どうしてっ?どうしてイタクないのっ?こんなに傷つけているのにどうしてっ?ほらっ血だってでてるのにどうしてっ?ねぇっどうして? あははははははははははははははははははははははっ」

……今になって気付いた。
『彼女』が全身を濡らしているのは自分自身の流した『血』なのだ。
よく見てみると全身至る所が今のように刔られたような痛々しい傷痕が無数に刻まれていた。
おそらく普通の人間ならとっくに血液を大量に失ったショック反応から死を迎えているか、
少なくともあのような嗤い声を上げることは出来はしないはずだ。

あのカッターナイフにこびついた『赤』と『肌色』は自分自身の血液と皮膚…。そして辺り一面、それも天井まで塗り潰していた『赤』も……。
それは本来真っ白なキャンバスに『赤色』のついた刷毛で『塗り殴った』感じ。

『ひ……ひ……ひ』

俺は声にならぬ鳴咽とも取れる声を上げながら後ろに後ずさった。

それはすぐだった。
わずかに残った消え入りそうな温かみと柔らかい感触を手で感じ取った。
その感触をは自分が持つ感触と酷似していた。
そうこれは……。

まるで親から見ては触ってはいけないと言われたものを見ようとする緊張と怯えを募らせた子供のように、おそるおそるそれの正体を確かめようと後ろを振り向く。

……それは本当に最初からそこにあったのか、
あるいはいくら暗がりとはいえ何故今まで気付かなかったのか。

廊下の角に合わせるように曲げられたそれは確かに……

…人間の身体だった。


そしてふと気付く自分の手を濡らしたもの。
それは濡れた俺の身体が通る前に既に濡らしていた水だった。
ゆっくりと両の手を自らの顔の高さまで上げ、手の平をみつめる。

あぁ、俺は今までこんな『色』をした液体を見たことがあっただろうか。
狂演と化した部屋の明かりが映し出した俺の手は……、


……黒く染まっていた。

一体これは何なのか?
墨等といったものとは全く『深さ』が違う。

純粋に光の中だけで映えるその色に、
さらにちょっとぬめり気があって生温かい……。


ドオオオオォーーーーンッ!!!

不意に黒い雨が降り注ぐ外から鳴り響いた雷。
距離はそう遠くないのか、
窓からまばゆい光が一層大きく闇に包まれていた廊下を浮かび出した。


……俺は何故こんな雷のまばゆい光がそそいでいたにも関わらず五感がはっきりしていたのか。

……俺の後ろにあった人間の身体は今はっきりと俺の眼に映し出された。

「あぁ……あ……っあぁああああぁあああああああああっ!!?」

悲鳴を上げられずにはいられなかった。
既に事切れているだろうその肉体は、
まさに外国のスプラッタ映画に出てくる死体そのものだった。

露出した部分は鋭い刃物によって無数に切り刻まれ、刔られ、剥がされ、
どういう経過で至ったのかは想像できないまさにこの世の苦痛と残虐をもりこんだ凌辱。

顔に至ってはもはや知っている顔だとしても誰かは解らない。

二つの双眸は本来あるべきものがなくただの空洞と化し、
こめかみの刔り傷からは、さっきの液体がとめどなく流れている。

「ぐぅっ……おぅえぇぇぇ……っがっくっ」

あまりの凄惨な光景に胃の中のものを逆流させた。
黒い液体の上に自らの胃酸にまみれた汚物が広がった。
胃の痙攣に似た症状はしばらくはおさまらず、
何度も見てはいけなかったものを同時に吐き出すように鳴咽を漏らし続けた。

しかしもう遅い。

今見てしまった光景は一生眼に焼き付き、
心の底に深く残り続けるにちがいない。
きっとその度に今のような症状を引き起こすのだろう。
夢にうなされ消しようの無い地獄絵図。
いっそ廃人になった方がましなのかもしれない。

……ひた……ひた……ひた…

のたうちまわる俺の背後に人の気配を感じる。
すると激しかった胃の痙攣がおさまった。

……身体が本能で察知したのかも知れない。
危険が迫っているということに。

俺は冷や汗が伝い落ちるのを感じながら後ろをゆっくりと覗き込んだ。
そこには先程まで刔っていた手をぶらんと下げ、
もう片方の手に血がしたたり落ちるカッターナイフを握らせたままゆらりと佇んでいた。

「イタクないのどんなに傷つけてもイタクないのどんなに刔ってもイタクないのどんなに血を流してもイタクないのシネないのでもクルシイのとってもクルシイのたすけてたすけてたすけてたすけて」

箇条書の文をただ棒読みに読み進めるように、か細い声でつぶやく『彼女』。
しかし現実の見た狂乱の図にただ言葉を失うだけだった。

「たすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけて……。」

壊れた人形のようにただひらすら同じ言葉を繰り返す『彼女』。

「…スケテタスケテタスケテタスケテタスケテ…。」

そして……、

ドオオオオオォーーーンッ!!

「あっはははははははははははははははははははははははははははははははっ」

再び見せた雷の光が『彼女』の血にまみれた不気味な嗤い顔を映し出していた…。


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